2012年01月24日

訴えるひと、それを判断する人、分析して伝える人

昨日、若山に企画の相談をしている時に、流れでこんな話を聞いた。

中原佑介の批評集が1巻とんで5巻が出ていて、全集的な書物の場合こういうことが珍しくなく、既にあるものの研究、編纂だから、最初の構成、章立てができていれば可能ですよ、多分、研究する人がお多かったり、書きやすかったりしたんじゃないですかね、と

目からウロコだった。、全くそのとおりだなと思うと同時に、目からウロコだった自分の視野の狭さと意識の偏りに驚いてしまった。






創造や表現行為は、途中、本当のことを言えば、一歩先もやってみるまでは分からない。

予想は、予感をもとにかなり真剣に立てるが、最初から最後まで常に更新しながらで、結果的にはいつも塗り替えられていく。
客観的な視点に立ちながらも、最後は実感を最も大切にして進めていき、たどり着く。
それは大抵、予定とも予想とも違う、「思ったとおり」のものだ。

そんな風にやっているものだから、どんな役割の人もそういう感覚だと錯覚することがある。
恥ずかしい。





自分のやっていることは、実感という切実である意味絶対的なものの上に成り立っているけれど、その価値が自分以外に伝わるには、物体、現象を問わず実体化する必要がある。
それが制作行為。

実体化されたものが誰かに伝わるには、それを体験してもらう必要がある。
それが鑑賞。

体験された価値を、客観視し、体験していない人にも広く伝えること、
それが批評。

自他ともに伝わった価値を収集、分析し、歴史として組立てること
それが多分研究。




作家はどんなに客観的な人でも最後は主観と体験に基づいて全てを語ることになる。
表現の理由は、納得を得るためではなく、必死な、切実なる訴えだから。
そんな訴えばかりしているうちに、自分の主観そのものがほかの人にとっても価値があるように思ってしまうことがある。

作り手の感覚だけでなく、一般的にも、革新的なものの価値を生み出してきたのは、作家単体の個性だと思いがちだ。
けど実際はひとつの役割をになっているだけだということを、常に感じていたいと思う。



posted by 久恵真由美 at 15:41| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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